1、欲望
766 自分の欲望をかなえたいと望んでいる人が、もしもその欲望をかなえることができるならば、彼は心から喜ぶでしょう。
767 一方自分の欲望をかなえたいと望んで貪欲の生じた人が、もしもその欲望をはたすことができなくなるなら、かれは矢に射られたかのように悩み苦しむでしょう。
768 足で蛇の頭を踏まないようにするのと同じように、よく気をつけていろいろな欲望を回避する人は、この世でこの執着、こだわりを乗り越えることができます。
769 人が、田畑、宅地、屋敷、お金、地位、異性、親族、その他いろいろの欲望をむさぼり求めると、
770 無力のように見える諸々の煩悩がかれに打ち勝って、危ない災難がかれを踏みにじり、そのために苦しみが彼につきまといます。あたかも底の破れた船に水が侵入するかのように。
771 そのためにみなさんは常によく気をつけていて、いろいろな欲望を回避しなさい。船の溜まった水を汲み出すように、それらの欲望を捨て去って激しい流れを渡り切って心安らかな場所に到達しなさい。
2.洞窟についての八つの詩句
772 五感にしばられている洞窟という身体の中にとどまって、執着し、多くの煩悩に覆われて、迷いのうちに沈没している人がいます。このような人はこれらの煩悩から遠ざかり離れることから遠く隔たっています。それは世の中にあって欲望を捨て去ることは容易ではないからです。
773 欲望にもとづいて生存するという快楽にとらわれている人々は苦悩から解放されにくいのです。それは他人が苦悩から解放させてくれるものではないからです。彼らは未来のことも過去のこともかえりみながらこれらの目の前の欲望をむさぼっているのです。
774 彼らは欲望をむさぼり欲望に熱中し溺れて物惜しみをして不正をしても悪いとは感じていませんが、死に至るときには苦しみに襲われて悲嘆するのです。「ここで死んでから私はどうなるのだろうか」と。
775 だからあなたがたはこのことに学ぶべきです。どんなことでも、自分の欲望のために不正を行ってはなりません。一度でも不正をしてしまうと「人の命は短いもの」ですから取り返しがつきません。
776 この世の人々が、いろいろな生存に対する執着にとらわれ、震えているのを私は見ます。人々は様々な生存に対する執着を離れられないため死に直面して泣くのです。
777 何かを私のものであると執着しているため動揺している人々を見てごらんなさい。彼らの有様は干からびた流れの中の水の少ないところにいる魚のようなものです。これを見て私のものという思いから離れて行いをするべきです。いろいろな生存に対して執着することなしに。
778 賢い人は幸不幸、損得などの両極端に対する欲望をおさえて、五つの感覚(見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触る)と対象物との接触を知り尽くして、むさぼることなく、自責の念にかられるような悪い行いをしないので、見聞きすることがらに汚されないのです。
779 想いというものを知り尽くして激流を渡りなさい。聖なる人は所有したいという執着に汚されることなく、煩悩の矢を抜き去って、日々つとめ励んで、この世もあの世をも望まないのです。
3.悪意についての八つの詩句
780 悪意をもって他人をそしる人々がいます。また他人から聞いたことを真実だと思って他人をそしる人々もいます。そしる言葉が起こっても聖なる人はそれに近づきません。だから聖なる人は何事についても心の荒むことがないのです。
781 欲望に心ひかれ好みにとらわれている人は、どうして自分の偏見を超えることができるでしょう。彼はみずから完全であると思っているのです。彼は自らの知ることにまかせて語るでしょう。
782 人から尋ねられたのではないのに、他人に向かって、自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人は、自分で自分のことを言いふらすのですから、かれは「おろかな人」ですと真理に達した人々は語ります。
783 その修行僧の心が安静であって、戒律に関して「わたしはこのようにしている」といって語ることがないならば、世の中のどこにいても煩悩の燃え盛ることがないのですから、かれは「優れた人」ですと真理に達した人々は語ります。
784 汚れた見解をあらかじめ設けておいて、偏らせて作って、自分のうちにのみ勝れた実りがあると見る人は、「ゆらぐものに頼る平安」に執着しているのです。
785 諸々の事物に固執することはこれこれのものですと確かに知って自己の見解に対する執着を超越することは容易ではありません。ですからその人はそれらの固執の住まいの中にいて物事を退けたりするのです。
786 邪悪を払い除けた人は世の中のどこに行っても、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しません。邪悪を払い除けた人は、偽りとおごり高ぶりとを捨て去っています。彼はどうして迷いの生死を重ねることに赴くでしょうか?彼はもはやたよって近づくものがないのですから。
787 諸々の事物にたよって近づく人は、あれこれ論議やそしりやうわさを受けます。偏見や執着にたよって諸々の事物に近づくことのない人をどの言いがかりによって、どのように呼べるのでしょうか?彼はとることもなく捨てることもない。彼はこの世にありながら一切の偏見をはらいさっているのです。
4.清浄についての八つの詩句
788 「私は最も清らかな人を知っています。その人が全く清らかになるのは正しい道に対する見解によるのです」と、このように考えることを最上であると知って、清らかになることを感じる人は正しい道に対する見解を最上の境地に達し得る智慧であると理解しています。
789 「もしも人が見解によって清らかになりうるのであれば、あるいは人が智慧によって苦しみを捨て去ることが出来るのであれば、正しい道以外の他の方法によっても煩悩にとらわれている人が清められることになるであろう。」とこのように語る人を「偏見のある人」と呼びます。
790 真の修行を完成した人は正しい道のほかには、他の見解、伝承の学問、戒律、道徳、思想のうちのどれによっても清らかになるとは説きません。彼は禍いや幸福という思いに汚されることなく自我を捨てています。この世において禍いや幸福という思いの因をつくることもしません。
791 前の師を捨て後の師にたより煩悩の動揺に従っている人々は、執着を乗り越えることがありません。彼らはとらえてはまた捨てるのです。それはまるで猿が枝をとらえてまた放つようなものです。
792 自ら誓った戒律をたもつ人は想いにふけって種々雑多なことをしようとします。しかし智慧ゆたかな人は経験による認識によって知り、真理を理解して種々雑多なことをしようとしません。
793 かれは一切の事物について見たり学んだり考えたりしたことを抑えて支配しています。このように観て覆われることなくふるまう人をこの世でどうしてみだりなおもいや理性で物事の善悪道理を判断することをさせることができるでしょうか。
794 彼らははからいをすることなく、何ものかを特に重んずることもなく「これこそが究極の清らかさです」と語ることもありません。結ばれた執着の絆を捨て去って、世間の何ものについても願望を起こすことがないのです。
795 真の修行を完成した人は煩悩の範囲を乗り越えています。彼が何かを知りあるいは見ても執着することがありません。彼は欲をむさぼることなく、また欲から離れようとすることをむさぼることもありません。彼はこの世ではこれが最上のものであると固執することもないのです。
5.最上についての八つの詩句
796 世間では、人は諸々の見解のうちで自分が勝れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説いています。それゆえに彼は諸々の論争を超えることがありません。
797 彼は、見たこと、学んだこと、戒律や道徳、思考したことについて、彼自身がたてまつったことのうちにのみすぐれた実りを見て、そこでそれだけに執着して、それ以外の他のものをすべてつまらないものとみなします。
798 人がなにかあるものを拠り所にして「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりに他ありません。と真理に達した人々は語ります。それゆえに修行者は、見たこと、学んだこと、思考したこと、または戒律や道徳にこだわってはなりません。
799 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはなりません。自分を他人と「等しい」と思うことなく、他人より「劣っている」とかあるいは「勝れている」とか考えてはなりません。
800 彼は、すでに得た見解や先入観を捨て去って、執着することなく、学識に関しても特に拠り所としません。人々は種々異なった見解に分かれていますが、彼は実にそれぞれの党派には盲従せず、いかなる見解をもそのまま信ずることもありません。
801 彼はここで、両極端に対して、種々の生存に対して、この世についても、来世についても、願うことがありません。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住まいは、かれには何も存在しません。
802 彼はこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思考したことに関して、微塵ほどのみだりな想いも構えていません。いかなる偏見にもこだわることのないその天上の神の子孫を、この世においてどうしてみだりなおもいや理性で物事の善悪道理を判断することをさせることができるでしょうか?
803 彼は、みだりな想いや理性で物事の善悪道理を判断することなく、いずれかひとつの偏見を特に重んずるということもありません。かれは諸々の信仰上の教えのいずれかを受け入れることもありません。かれは戒律や道徳によって導かれることもありません。このような人は、心安らかな場所に達してもはや戻ってこないのです。
6.老い
804 ああ、短いかな人の生命よ。百才に達しないで死んでしまいます。たとえそれよりも長く生きたとしても、結局は老衰のために死んでしまいます。
805 人々は「わがものである」と執着したもののために悲しみます。なぜなら自分の所有しているものは常にあるわけではないからです。この世にあるものはただ変化するものであるとみて今いるところにとどまっていてはなりません。
806 人が「これはわがものである」と考える物、それはその人の死によって失われます。この理りを知って、わがものという観念に屈してはなりません。
807 夢の中であった人は目が覚めたならばもはやかれを再び見ることができません。それと同じく愛した人でも死んでこの世を去ったならばもはや再び彼を見ることができません。
808 「何の誰それ」という名前で呼ばれ、かつては見られて、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただその名前が残って伝えられるだけです。
809 わがものとして執着したものをむさぼり求める人々は憂いと悲しみと物お Tweet